高山断流水,伯牙失子期 ——藤子不二雄解散浅析

藤子不二雄,可能是日本漫画史上最为成功的组合,自1951藤本弘和安孙子素雄二人结组以来,他们的作品,无论是联合创作的,比如《小鬼Q太郎》,还是各自独立创作的,比如藤本弘的《哆啦A梦》、安孙子素雄的《笑面推销员》,都是日本漫坛的不朽名作。虽然在60年代后期,两人就因为创作理念的差异走上了各自独立性创作的道路,但“藤子不二雄”这个名称却一直保留了下来,而且二人还联合拥有“藤子工作室”,经营他们的漫画作品创作及版权等业务,二人的作品也始终以“藤子不二雄”的名义发表。

《哆啦A梦》单行本第10卷的《看不见人的眼药水》,虽然藤子老师完全拥有《哆啦A梦》的版权,但可以看到在二人散伙之前,《哆啦A梦》仍然是以两个人的名义,即“藤子不二雄”的名字署名的

但到了1987年年底,这个存在了36年的组合突然毫无征兆的解散了,让人不禁惋惜。虽然“藤子不二雄”这个组合在国内算得上家喻户晓,可是关于两位漫画大师分手的原因,在国内网络上讨论地比较少,关于这一点,两位老师似乎也尽量回避,不愿多谈。偶然的情况下,我找到了一篇关于这方面的日语文章,相信这能给予我们一些关于“藤子不二雄”解散原因的线索吧。

文章的链接:

ドラえもんの黒歴史(後)藤子不二雄の解散はドラえもんのせいだった! (2014年8月21日) – エキサイトニュース

或者

ドラえもんの黒歴史(後)藤子不二雄の解散はドラえもんのせいだった! – 本と雑誌のニュースサイト/リテラ

同时附上文章原文,希望有懂日语的朋友指教

ドラえもんの黒歴史(後)藤子不二雄の解散はドラえもんのせいだった!

2014.08.21

昨日、お送りした国民的アイドルキャラクター『ドラえもん』の黒歴史。前編では、”日テレ版ドラえもん”ことテレビアニメ『ドラえもん』の第一シリーズが、藤子・F・不二雄の意志によって封印されていることを、安藤健二氏のルポ『封印作品の憂鬱』(洋泉社)をもとにお伝えした。後半である今回は、『ドラえもん』こそが藤子不二雄の解散劇を招いた、という噂について紹介しよう。

 まず、藤子不二雄が突如「解散」を発表し、世間を驚かせたのは1987年のことだった。ご存じの通り、藤子不二雄というのは藤本弘氏(藤子・F・不二雄)と安孫子素雄氏(藤子不二雄Ⓐ)のユニット名で、デビュー時の足塚不二雄(名字は尊敬する手塚治虫の名から「手塚の足下にもおよばない」という意味で付けたもの)などを経て、53年から名乗っていた。藤子不二雄Ⓐによる名著『まんが道』(中公文庫)にも詳しいが、そもそも2人は小学校からの付き合い。互いにアイデアを出し合い、ときに刺激し合い、2人で”マンガ家になる”というひとつの夢を追いかけてきた仲である。

解散発表の際は、その理由を「私たちはお互い50ン才。もうあんまりアトがありません。新しい展開としてそれぞれがやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと思ったわけです」と述べ、そのほかのインタビューでも”喧嘩別れしたわけではなく、自分たちの個性を尊重するためにコンビを解消した”ことを強調していた藤本氏と安孫子氏。だが、安藤氏の著書『封印作品の闇』(だいわ文庫)によると、これはあくまで表向きで、じつは解散にいたったのには別の理由があったのだという。それはずばり、2人の”収入格差”問題だ。

 もともと藤本氏と安孫子氏がコンビを組んでいたときには、藤子不二雄として得た収入を折半していた。たしかにコンビ時の長者番付を見ると、その納税額はほぼ同じ。が、コンビを解消した2年後以降の長者番付を見ると、藤本氏のほうが”圧倒的に”納税額が多い。安藤氏の取材でも、複数の関係者が「八〇年代の『ドラえもん』の大ヒットで、はたから見て稼いでいるのは藤本先生だというのは明らかになっていました」と口を揃えたという。

 しかし、それまで折半でやってきたにもかかわらず、なぜ突然、収入が問題となったのか。引き金となったのは、藤本氏の体調問題だ。コンビを解消する直前に藤本氏は胃潰瘍の手術を受け、「その後も肝臓を悪くして通院」していたのである。藤子不二雄の2人とトキワ荘時代からの知人で、赤塚不二夫のブレーンを務めていたマンガ家・マンガ評論家の長谷邦夫氏は、『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)にこう書いている。

「重病を抱えた藤本は自分の死を考えれば、これまでのような二人でほぼ五〇%分割に近い著作権料のままでは、藤本家全体が承服できることではないと思ったのだろう。(中略)彼ら二人っきりだったら、友情という絆だけで、どのようにも分割できる。しかし、二人にはすでに家族が存在する。後にトラブルを起こさないよう、明確に分離しておかねばならない。子供時代よりの美しい絆も、現実の前にはかくもはかないものに変わらざるを得なかったのだ」

 もちろん、解散理由にはさらなる深い問題も絡んでいたようだ。安藤氏が『封印作品の闇』でテーマにしているのは2人の解散理由ではなく、2人の合作となっている『オバケのQ太郎』が絶版状態で復刊されない理由なのだが、その封印の真相を、小学館の元幹部はこのように証言している。

「藤本先生の側の許可がどうしても出ない。未亡人の藤本正子さんの許可が下りないんだ」

「これは私の推測だが、安孫子先生のお姉さんで藤子スタジオ社長の松野喜多枝さんと、交渉したくないというのも、あったんだと思う。二人の間には、藤子不二雄がコンビを解消したときからの因縁があるんだ」

「(コンビ解消の理由は)松野さんの存在が大きかったはずだ。彼女が藤子スタジオのマネージャーになったのは、『ドラえもん』の連載の途中からだったと記憶している。それまでは、藤本先生とも安孫子先生とも、直接打ち合わせできていたが、その後は必ず松野さんを通さないとできなくなった。(中略)松野さんが自分の弟である安孫子先生に、スタジオの軸足を移そうとしたのかはわからないが、スタジオ内でのパワーバランスが崩れてきたような話は聞いたことがある」(同書より)

 この合作『オバQ』は、09年に発刊された『藤子・F・不二雄大全集』に収録され、20年以上にわたる封印が解かれた。よって、封印の理由と見られていた”家族同士の問題”はすでに解決したということなのかもしれない。だが、収入格差による家族同士のトラブルを懸念し、長年のコンビを解消していたとなれば、その原因をつくったのは『ドラえもん』だということにもなるだろう。

 とはいえ、忘れてはいけないのは、『ドラえもん』は藤子氏と安孫子氏の友情があったからこそ誕生したということだ。安藤氏が「目頭が熱くなってしまった」という、2人の過去のやりとりを引用しよう。

安孫子「そういえば、ぼくらの漫画は、主人公二人っていうのが多いな。」

藤本 「『ドラえもんとのび太』『オバQと正ちゃん』……」

安孫子「やっぱり、何でも打ち明けられて、信頼し合えるっていう友だち関係は、すごく好きだなぁ。」

藤本 「ぼくたち同士、なが年の友だちだし、そういったことが自然に作品に反映されるのかもしれないね。」

安孫子「ジャイアンみたいないじめっ子だって友だちなんだというのっていいなあ、やっぱり。」

藤本 「これからも二人で一人、仲良く描き続けていきたいね。」

安孫子「楽しい漫画を力いっぱいいっしょうけんめい描こう!」

(『コロコロデラックス1 ドラえもん 藤子不二雄の世界』小学館/1978年)

 ──『ドラえもん』が不朽の名作となり得た裏側には、こうした藤本氏と安孫子氏の”唯一無二の輝かしい友情”がある。実際、安孫子氏は雑誌のインタビューで「(収入の問題で)トラブルは一切ありませんでした。(中略)二人とも漫画を描くことが大好きで、そのまま漫画家になった、という感じでプロの意識がなかった」(「アサヒ芸能」02年9月5日号)と答えているように、藤本氏と安孫子氏の2人のあいだでは”二人で一人、仲良く描き続けて”いただけなのだ。結果として家族を配慮する気持ちから解散してしまったと思われる2人だが、大人になってもこのような美しい関係を築けるとは、なんという奇跡だろう。

 藤子・F・不二雄生誕80周年記念として製作され、現在大ヒット中の映画『STAND BY ME ドラえもん』。ぜひこの機会に、『ドラえもん』裏ヒストリーともいえる2人の物語を触れてみてほしい。そこには、映画にも負けず劣らずの感動が待っているはずだ。

(水井多賀子)

一、“望文生义”

由于我完全不懂日文,所以这篇文章我也是完全不懂的。不过多亏了现代翻译软件的帮助,再加上自己的一些“合理推断”,让我能对文章大意有了一个粗浅的了解,下面就和大家分享我对文章的理解吧。本人不懂日语,肯定会犯很多错误,请大家多多指教。

通过翻译软件(谷歌翻译、腾讯翻译君)得知文章的标题是“哆啦A梦的黑历史(后),藤子不二雄的解散是哆啦A梦的错!”

文章首先简要介绍了藤子不二雄组合的历史,然后叙述了散伙的“官方解释”——“我们都是50多岁的人了。留给自己的时间不多了,今后只想试着做一些自己想要做的事情。”“为了尊重彼此的个性而取消了组合”。(解散発表の際は、その理由を「私たちはお互い50ン才。もうあんまりアトがありません。新しい展開としてそれぞれがやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと思ったわけです」と述べ、そのほかのインタビューでも”喧嘩別れしたわけではなく、自分たちの個性を尊重するためにコンビを解消した”ことを強調していた藤本氏と安孫子氏)。甚至不二雄老师在日后的采访中还说过:“自己总是画一些过激的东西,恐怕会伤及《哆啦A梦》的名声。到了五十岁,也不想再画漫画了,该做的已经做了,接下来可以做自己想做的事了。”

然后文章话锋一转,说道根据安藤健二的著作《封印作品不为人知的一面》,以上只是“官方的”说法,真正的原因是“收入分配”问题。(だが、安藤氏の著書『封印作品の闇』(だいわ文庫)によると、これはあくまで表向きで、じつは解散にいたったのには別の理由があったのだという。それはずばり、2人の”収入格差”問題だ。

“解散之前,二人是把所有的收入平分的,在当时的资深漫画家收入排行榜上,二人的纳税金额是几乎相同的。但在解散的2年后,再次查看榜单的话,藤本先生的纳税金额已经‘压倒性’地高于安孙子先生。在安藤对相关人员的采访中,他们也承认《哆啦A梦》是80年代的绝对热门作品,因此从旁观者观察中,也不难推断藤本先生收入要远远高于安孙子老师。”(もともと藤本氏と安孫子氏がコンビを組んでいたときには、藤子不二雄として得た収入を折半していた。たしかにコンビ時の長者番付を見ると、その納税額はほぼ同じ。が、コンビを解消した2年後以降の長者番付を見ると、藤本氏のほうが”圧倒的に”納税額が多い。安藤氏の取材でも、複数の関係者が「八〇年代の『ドラえもん』の大ヒットで、はたから見て稼いでいるのは藤本先生だというのは明らかになっていました」と口を揃えたという。

2004年漫画家收入估计,可见即使已经去世8年之久的藤子老师,他画出的蓝胖子商业价值依旧十分巨大,图片摘自 https://matome.naver.jp/odai/2148871524413328101 。

“既然二人之前一直把收入平分,为什么偏偏在这个时候出了问题?起因就是藤本弘的健康问题。藤本弘先生在组合解散之前就已经做了胃溃疡手术,‘而且因为肝脏情况的恶化又多次就医’——与藤子不二雄两人从常磐庄时代就相识的老友,号称赤塚不二夫‘智囊’的漫画家兼漫画评论家,长谷邦夫先生在《对漫画高呼热爱的男子汉们》(清流出版社)中写道。”(しかし、それまで折半でやってきたにもかかわらず、なぜ突然、収入が問題となったのか。引き金となったのは、藤本氏の体調問題だ。コンビを解消する直前に藤本氏は胃潰瘍の手術を受け、「その後も肝臓を悪くして通院」していたのである。藤子不二雄の2人とトキワ荘時代からの知人で、赤塚不二夫のブレーンを務めていたマンガ家・マンガ評論家の長谷邦夫氏は、『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)にこう書いている。

“考虑到自己已经重病缠身,藤本认为在他离世后,像之前那样,把全部收入平分的做法,是不可能被藤本家接受的吧(以下省略)……对于他们两个人来说,深厚的友谊让收入不管如何分配都不是问题,但二人都有自己的家人。所以两个人的著作权必须要界定清楚,避免日后可能的纠纷。看来,从童年时就建立起来的美好羁绊,也不得不向现实妥协啊。”(「重病を抱えた藤本は自分の死を考えれば、これまでのような二人でほぼ五〇%分割に近い著作権料のままでは、藤本家全体が承服できることではないと思ったのだろう。(中略)彼ら二人っきりだったら、友情という絆だけで、どのようにも分割できる。しかし、二人にはすでに家族が存在する。後にトラブルを起こさないよう、明確に分離しておかねばならない。子供時代よりの美しい絆も、現実の前にはかくもはかないものに変わらざるを得なかったのだ」)。

上文主要说的是,组合的解散有藤子老师家人方面的问题。下文则是探讨不二雄老师家人的问题:安孙子老师的妹妹松野喜多枝女士似乎也负有责任,“组合的解散,松野女士负有很大的责任,我记得她是在《哆啦A梦》连载中途成为藤子工作室经纪人的,在她来之前,两位老师能够随时见面,可是之后二人若想见面,必须要通过她才行”(「(コンビ解消の理由は)松野さんの存在が大きかったはずだ。彼女が藤子スタジオのマネージャーになったのは、『ドラえもん』の連載の途中からだったと記憶している。それまでは、藤本先生とも安孫子先生とも、直接打ち合わせできていたが、その後は必ず松野さんを通さないとできなくなった)。

再之后的文章就是解释标题的内容了,即二人的解散和蓝胖子到底有什么关系。“二人合作的《小鬼Q太郎》,收录在了09年出版的《藤子·F·不二雄大全集》中,随着再一次地与读者见面,对他长达20年的‘封印’也就此解除。因此,被看作是封印的理由的‘家人问题’也许已经解决了。但是,如果二人担心因收入差距会引起家庭之间的纠纷而解散了多年的搭档的说法成立的话,那么‘罪魁祸首’就应该是“哆啦A梦”了吧。”(この合作『オバQ』は、09年に発刊された『藤子・F・不二雄大全集』に収録され、20年以上にわたる封印が解かれた。よって、封印の理由と見られていた”家族同士の問題”はすでに解決したということなのかもしれない。だが、収入格差による家族同士のトラブルを懸念し、長年のコンビを解消していたとなれば、その原因をつくったのは『ドラえもん』だということにもなるだろう)。——看样子是因为《哆啦A梦》大热带来的巨额版权收入有可能让双方陷入纠纷。

不过再往后看,二人的散伙是因为哆啦A梦的这种说法只是文章作者故意做了一次“标题党”,从而吸引读者阅读的手法。文章作者又在下文对此驳斥道:“话虽如此,可不能忘记的是,《哆啦A梦》是因为藤本弘和安孙子素雄二人的友谊才得以诞生的啊”(とはいえ、忘れてはいけないのは、『ドラえもん』は藤子氏と安孫子氏の友情があったからこそ誕生したということだ)。

然后就文章就引用了一段二人的对话

“安孙子:如此说来,我们漫画的主人公大多是两个人啊。

藤本:‘哆啦A梦和大雄’、‘Q太郎和小正’……
安孙子:果然,无论什么都能坦白,互相信赖这样的朋友关系,非常喜欢啊。

藤本:我们是多年的至交,这些自然而然地反映在作品中。
安孙子:即使像胖虎这样的欺负人的人,也能成为好朋友呢,果然是这样的。
藤本:从今往后也希望能两个人一起,好好地把友谊描绘下去呢
安孙子:用漫画快乐地努力描绘下去吧

——《快乐龙Deluxe1 哆啦A梦:藤子不二雄的世界》 小学馆/1978年 ”

安孫子「そういえば、ぼくらの漫画は、主人公二人っていうのが多いな。」

藤本 「『ドラえもんとのび太』『オバQと正ちゃん』……」

安孫子「やっぱり、何でも打ち明けられて、信頼し合えるっていう友だち関係は、すごく好きだなぁ。」

藤本 「ぼくたち同士、なが年の友だちだし、そういったことが自然に作品に反映されるのかもしれないね。」

安孫子「ジャイアンみたいないじめっ子だって友だちなんだというのっていいなあ、やっぱり。」

藤本 「これからも二人で一人、仲良く描き続けていきたいね。」

安孫子「楽しい漫画を力いっぱいいっしょうけんめい描こう!」

『コロコロデラックス1 ドラえもん 藤子不二雄の世界』小学館/1978年

所以看到这里,哆啦A梦是二人组合解散的“始作俑者”的这种说法就不攻自破了。

之后文章作者在进行总结的同时,还写出了自己的感慨——“《哆啦A梦》成为不朽名作的背后,有着藤本先生和安孙子先生这样‘独一无二的辉煌友谊’作为支撑。实际上,安孙子先生在接受杂志社的采访时也说道:‘完全没有(收入问题的)纠纷。(中略)我们两个都非常喜欢画漫画,在没有专业才能的情况下,就那样成了漫画家,感觉多少有点惭愧呢’(《朝日艺能》02年9月5号)。哎,藤本先生和安孙子先生两个人只是希望‘能够心意相通地如同一人般,作为好朋友,一直画漫画’而已啊。结果二人因为顾及家人而解散了,(即使如此)在长大后也能保持这样美好的关系,真是一个奇迹啊”(──『ドラえもん』が不朽の名作となり得た裏側には、こうした藤本氏と安孫子氏の”唯一無二の輝かしい友情”がある。実際、安孫子氏は雑誌のインタビューで「(収入の問題で)トラブルは一切ありませんでした。(中略)二人とも漫画を描くことが大好きで、そのまま漫画家になった、という感じでプロの意識がなかった」(「アサヒ芸能」02年9月5日号)と答えているように、藤本氏と安孫子氏の2人のあいだでは”二人で一人、仲良く描き続けて”いただけなのだ。結果として家族を配慮する気持ちから解散してしまったと思われる2人だが、大人になってもこのような美しい関係を築けるとは、なんという奇跡だろう)。

作为结尾,文章还卖了一把电影票:

“为纪念藤子·F·不二雄诞辰80周年而制作的电影《哆啦A梦:伴我同行》目前正在热映。请务必借此机会(指看电影),了解一下被称为‘《哆啦A梦》背后历史’的两位老师的故事。那里会有不输给电影的感动”(藤子・F・不二雄生誕80周年記念として製作され、現在大ヒット中の映画『STAND BY ME ドラえもん』。ぜひこの機会に、『ドラえもん』裏ヒストリーともいえる2人の物語を触れてみてほしい。そこには、映画にも負けず劣らずの感動が待っているはずだ)。

二、伟大友谊

在镜头前依旧亲密无间的二人,另外水印真是恼人

“读完”这篇文章,如果我这“尬翻”基本正确的话,那么我想藤本弘和安孙子素雄两位漫画大师的友谊要比我们想象的还要伟大,两个人既相互成就,同时又相互扶持,真的不只是说说而已。

两位大师各自作品的“全家福”,上为F组,下为A组。虽然画风天差地别,但也能感觉到两组作品有一种说不出的“默契”。

如同之前所说,二人在60年代末就基本走上了独立创作的道路,但让我没想到的是,他们居然是以平分的方式分配两个人所有收入的。要知道在进入70年代后,随着《哆啦A梦》的走红,藤子老师的漫画销量就已远远超出不二雄老师了;另一方面,这时的不二雄老师似乎也开始将工作重心从漫画上转移,兴趣广泛的他在电影、动画、编剧等领域都有涉猎,生活上也与“工作狂宅男”的藤本弘不同,他更加热衷各种社交活动,比如打高尔夫球、参加各种聚会,不过代价就是漫画作品没那么“高产”了;总的来说,进入70年代后,无论是作品的数量还是销量,藤子老师都是要远胜于不二雄老师的,因此单独计算收入的话,藤子老师也应是远超不二雄老师的,可是直到1987年之前,二个人的收入一直是平分的状态,所以,我们可以说在这一段时间,不二雄老师是真正的受益人。

不过这并不表示不二雄老师一直是受到藤子老师的“照顾”的,同样如之前所说,两个人是“相互成就”、“相互扶持”的。从60年代后期到1974年《哆啦A梦》恢复连载为止,藤子老师进入了创作的“瓶颈期”,好几部作品反响都不理想,比如《酸梅星王子》、《21卫门》,由此他对自己要画什么样的漫画都产生了迷茫;而另一方面,不二雄老师在这段时间可谓是风生水起,比如《忍者服部君》、《笑面推销员》都大受欢迎。这一段时间平分收入的话,受益者恐怕就应该是藤子老师了吧。

如果我没有遇见他,我是绝对不可能当漫画家的。藤本氏如果没有遇见我,那么我认为他也绝对不会成为漫画家。长久以来,我们两人形影不离,相互支持,成为漫画家,我们有着这样的出发点。这是我的骄傲。”

——藤子不二雄A

刺透人性的作品《笑面推销员》,丧黑福造的标志性的笑容

当年的人气作品《忍者服部君》,请注意作者署名是“藤子不二雄”。

如果没有不二雄老师的话,我们恐怕就见不到画出了众多经典作品的漫画大师藤本弘:小学时期,因为身体瘦弱、木讷内向而备受冷落的他,只有把快乐寄托在画笔之上,而这时同样喜爱画画的安孙子素雄从别处转校而来,两个人就这样相遇了,这样的一段因缘际会同时成就了两位漫画大师。如果那时没有不二雄老师的到来,没有二人此后的相互鼓励,恐怕藤本弘可能就只是津田制糖厂的一名普通工人了吧。

此后去东京追逐漫画梦想的“上京之旅”,要是没有不二雄老师响应,恐怕也会无法成行:高中毕业后,已经决定从事漫画事业的藤本弘计划去东京追逐梦想,可是优柔寡断的性格让自己迟迟无法下定决心,于是他邀请当时已经工作的安孙子素雄辞职,一同上京“分担风险”。要知道,当时的不二雄老师在伯父的提携下已经进入报社,有了一份稳定的工作,还有了年轻可爱的妹子作自己的后辈(这才是重点),在50年代初,那个尚且国穷民困,刚走出二战阴影日本,一份稳定的工作意味着什么不言自明。不过即使如此,不二雄老师还是放弃了安逸的工作(重友轻色的鉴朋友),和好友一同踏上了前途未卜的漫画家之路,而且在东京搬入常磐庄之前的这段时间,二人的住处还是不二雄老师拜托远方亲戚找的。这是不是也算一份对藤子老师的恩情呢?

搬进常磐庄之后,两个人可谓是更加的亲密无间,不但一起创作出了众多的漫画作品,甚至还有过因为受不了漫画杂志社编辑的密集催稿和压榨,而一起逃回老家过年的“光辉事迹”。

正是因为这样“刻骨铭心”的关系,二人的友谊才能真正超越金钱吧,即使在1987年“分手”以后,二人依旧保持着密切的联系。这样的友谊,恐怕也只有知音之交“伯牙子期”可以媲美了了吧。

伯牙善鼓琴,钟子期善听。伯牙鼓琴,志在高山,钟子期曰:‘善哉,峨峨兮若泰山!’志在流水,钟子期曰:‘善哉,洋洋兮若江河!’伯牙所念,钟子期必得之。子期死,伯牙谓世再无知音,乃破琴绝弦,终身不复鼓。” ②

伯牙在钟子期去世之后,感叹世间再无知音,便“破琴绝弦”,终生不再抚琴。

同样的,在藤子老师96年离世之后,很多人希望不二雄老师能够接过藤子老师的画笔将《哆啦A梦》的故事继续下去,以至于他在参加藤子·F·不二雄葬礼时,都被许多记者询问“是否会接续《哆啦A梦》?”他的回答异常坚定:“那是我所无法画出的作品类型。”不二雄老师为什么拒绝续更《哆啦A梦》呢?恐怕就是因为他太了解自己最好的朋友,藤子·F·不二雄了吧。

在藤子老师去世后前来悼念的不二雄老师,脸上隐藏不住的悲痛和惋惜。同样可以看到他身后的“藤本弘”门牌

我现在想来,也许改变线路是因为一直不变地专注于儿童漫画的藤本氏吧。藤本氏身体很弱,规规矩矩地生活全部集中在漫画上。工作以外感觉他也只是看看电影,看看书而已,他对自己的世界有着极深的追求啊。藤本氏身上有太多我没有的东西,所以从这个意义上来说,我移行到青年漫画上也是拜藤本氏所赐吧。” ③

我最尊敬藤本氏的地方,就是他始终都保持着一颗童心。因此不管是40岁还是50岁,他都画着《哆啦A梦》,我觉得他直到最后都是快乐地画着《哆啦A梦》,再也没有这样的漫画家了。” ④

在不二雄老师看来,正是因为太了解自己的好朋友藤本弘了,知道他拥有着自己没有的东西,所以他知道自己是无论如何也不能画出像《哆啦A梦》这样的作品吧。

藤子·F·不二雄的离世,带给了世人无限的遗憾和惋惜,体会最深的应该就是他一生的好友——藤子不二雄Ⓐ,也就是安孙子素雄先生了吧。

参考资料

①、③、④:百度机器猫吧【汉化】特色人物传——藤子·F·不二雄”

【图片】【汉化】特色人物传–藤子·F·不二雄【机器猫吧】_百度贴吧

②:《吕氏春秋·本味》

来源:知乎 www.zhihu.com

作者:朱全忠

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